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 ソビエト連邦の独裁的指導者ヨシフ・スターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領( 留萌町から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領 )を申し入れた。 理由は、 「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」 というものであったが、日本占領政策にソ連の影響力を強めようとする策略だったと考えられる。 しかし、トルーマンはこれを一蹴したため、 「その代償として捕虜をシベリアに送った」 という説があるが、この理由はソ連の捏造の可能性が高いという説もある( 国際政治学者瀧澤一郎の見解 )。




 シベリア抑留問題とは、第二次世界大戦の終結の時期に、中国東北部にいた約60万人以上の日本軍兵士や民間人がソ連の捕虜として連行され、シベリアでの強制労働に従事させられた問題です。 強制連行は、1945年8月にスターリンが拘留指令を出したためであり、この結果、抑留者の帰国が終わる56年までの間に、6万人以上が厳寒の地で命を落としました。

 この行為は、捕虜のすみやかな送還を明記したハーグ陸戦規則にも、武装を解除した日本軍兵士が 「各自の家庭に復帰」 することを定めたポツダム宣言にも反するものです。 このように国際法を乱暴に踏みにじったソ連側に、シベリア抑留の悲劇を生んだ最大の責任があることは明白で、93年にエリツィン大統領が謝罪しています。

 日本政府は、 「ソ連」 への請求権を56年の日ソ共同宣言で相互放棄されたとしています





( 2015.04.24 )
簿
  


 第2次大戦の終結後、旧ソ連によって南樺太・真岡まおか( 現サハリン南部ホルムスク )と中国・大連の送還収容所に抑留され死亡した日本人の名簿が、ロシアに保管されていたことが分かった。

 読売新聞はこのうち、188人分を入手した。 ソ連が作成した抑留死亡者名簿を巡り、シベリア抑留以外のデータが明らかになるのは、朝鮮半島の興南( 現在の北朝鮮 )にあった 「第53送還収容所」 の869人分に次ぐものとなる。

 南樺太、大連の死亡者名簿について、日本政府はすでにロシア政府から提供されており、今回の入手資料に掲載された死亡者情報の一部を保管している。 日本政府はシベリア抑留以外、死亡者名簿の存在を公表してこなかったが、興南や南樺太などの存在が相次いで明らかになったことを受け、ソ連やロシア政府から提供されたすべての死亡者名簿を、近く公開する方針を決めた。 すでに公開された分も含めた公開規模は1万人分を超える見通しで、抑留の全容解明に向けた大きな一歩になりそうだ。

 読売新聞が入手したのは、南樺太・真岡の 「第379送還収容所」 と大連の 「第14送還収容所」 の、死亡者名簿の一部。 第53送還収容所と同様にロシア連邦国立公文書館( モスクワ )が保管、読売新聞の請求を受け、このほど公開した。

 南樺太と大連は1945年8月の終戦まで日本が統治し、多くの民間人が住んでいた。 戦後にソ連が占領し、日本人は帰還を許されずに抑留された。 南樺太では千島列島や現在の北方領土も含め、約1万人が強制収容所に抑留され、2000人が死亡したとされる。 大連の抑留規模や死者数は現在も分かっていない。

 名簿を見ると、9割近くを軍人・軍属が占めた第53送還収容所と違って、民間人の割合が高い。 死亡者にも乳幼児と高齢者が目立つ。 5歳以下の割合は真岡で36%、大連で21%、60歳以上は真岡で42%、大連で18%を占めた。

 死因は乳幼児では栄養失調や肺炎、ジフテリアなどが多く、高齢者では心臓病や老衰が多かった。

 真岡の死亡者名簿には47年11月から12月までの44人と、48年4月の1人の計45人が記録されている。 埋葬区画の番号はない。

 大連の名簿は46年11月から47年3月までに死亡した108人分で、埋葬地の区画番号も書かれている。 ロシア側はこれとは別に、大連で埋葬された35人の死亡者名簿も公開した。

 南樺太や大連、北朝鮮での抑留の実態解明や遺骨調査は、ほとんど進んでこなかった。 名簿を所管する塩崎厚生労働相は今月3日、 「シベリア抑留者の対応が先になってしまい、申し訳ない」 と述べ、これまでの政府の対応に不備があったことを認めた。




                 
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