English
英语
영어
site stats




( 2009.09.19 )



ノモンハン事件の日ソ停戦協定
( 右端は日本代表藤本少将、中央は文書を手にするソ連ポタポフ少将 )
 今月11日、東京・四谷の上智大学講堂で、ノモンハン事件70周年のシンポジウムが開かれた。 ノモンハン事件は昭和14( 1939 )年5月から9月にかけ、日ソ両軍が旧満州国とモンゴルの国境線をめぐって激戦を繰り広げた戦闘である。 同じころ、欧州では、独ソ不可侵条約が結ばれ、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。
 シンポジウムでは、当時の日本が欧州情勢をどう見ていたかについて、貴重な発表が行われた。
 通産省OBで企業活力研究所理事長の土居征夫氏は、駐ソ大使館付武官だった父、土居明夫氏が昭和14年6月、モスクワからシベリア鉄道で一時帰国する途中、ソ連の機械化兵団が東へ送られる状況をつぶさに観察していた事実を報告した。 しかし、土居明夫氏がこれを新京( 長春 )で関東軍司令部に伝えたところ、関東軍参謀から無視された。 東京でも、参謀本部や陸軍省に報告したが、反応は鈍かったという。
 国際日本文化研究センターの戸部良一教授は、当時の情報収集について研究発表を行った。 イタリアの白鳥敏夫大使は昭和14年4月20日、ベルリンのヒトラー生誕50周年記念式典に招かれ、ドイツのリッベントロップ外相から独ソ提携の可能性を示唆された。 白鳥大使はこれを東京の外務省に打電した。 同年6月から7月にかけ、駐独大使館付海軍武官からも、独ソ接近情報が入ってきたが、いずれの情報も重視されなかった。
 ノモンハン事件の最中の同年8月下旬、独ソ不可侵条約の調印を知らされた平沼騏一郎首相が 「欧州情勢は複雑怪奇」 と言って退陣したことは、よく知られている。 日本政府の情勢判断の甘さを物語っている。
 当時の日本はドイツと防共協定を結び、これにイタリアを加えた日独伊三国同盟の締結を目指していた。 反共国家のドイツが共産国のソ連と手を結ぶはずがないという固定観念にとらわれていたといわれる。 その間、ソ連はドイツとの不可侵条約締結の見通しをつけつつ、着々と機械化部隊を東へ移動させていたのだ。



 政府や軍上層部の甘い見通しにもかかわらず、ノモンハンの日本軍は、機動力と火力で勝るソ連軍に対し、善戦敢闘した。
 当初、ノモンハンに派遣された23師団( 小松原道太郎中将 )は、夜襲や火炎ビンを使った攻撃などで、ソ連の機械化部隊に応戦した。 しかし、8月20日から開始されたソ連軍の大攻勢により、壊滅的な損害を受けた。 その後の戦闘で、日本軍が反撃に成功した事実は、あまり知られていない。
 現代史家、秦郁彦氏の研究によれば、8月末、ノモンハンに急派された第2師団の歩兵16連隊( 宮崎繁三郎大佐 )は夜襲攻撃で997高地をソ連軍から奪取した。 また、独立守備歩兵第16大隊( 深野時之助中佐 )は白兵戦で1031高地を奪っている。
 こうした終盤戦の勝利は、停戦協定( 9月16日 )以降の国境線画定にも影響を与え、日本軍が苦戦したハルハ・ホルステン河流域についてはソ連側の主張が通ったものの、宮崎部隊などが奪った南側の地域は日本側が主張する線で国境線が引かれたという。
 ノモンハン事件について、最近までは、日本軍がソ連の機械化部隊に惨敗したとされてきたが、ソ連崩壊後のロシアから旧ソ連軍の資料が公開され、死傷者はソ連側が2万6000人と日本側の2万人を上回っていたことが明らかになった。 秦氏は 「航空戦や戦車戦なども含め、日ソ両軍の戦いは引き分けに近い」 とみている。



 シンポジウムでは、ソ連がモンゴルで行った粛清の実態も報告された。 最近、秘密解除された資料などによると、1937年から39年にかけ、チベット仏教のラマ僧を含め2万人を超すモンゴル人が反革命罪や日本へのスパイ容疑で処刑されたといわれる。
 同じころ、ソ連は欧州でもドイツとポーランド分割の秘密協定を結び、1940年、カティンの森などでポーランド軍将校ら2万5000人を集団処刑している。
 ロシアのメドベージェフ大統領は先月、モンゴルで行われたノモンハン事件70周年行事で、 「この勝利の本質を変える握造は容認されない」 と述べた。 だが、歴史を握造していたのは、ソ連である。 ソ連はアジアでも欧州でも 「解放者」 ではなかった。
 今年も、ノモンハン事件の参戦者や遺族らによる 「ノモンハン事件現地慰霊之会」( 永井正会長 )が9月上旬、ノモンハンを訪れ、21回目の慰霊法要を行った。 ノモンハン事件の教訓を学び、戦死者を慰霊する気持ちを忘れてはならない。

ノモンハン事件:
 日独防共協定の成立は日ソの関係を冷却させ、これによりソ連と中国との間に提携の機運を生み日華事変の勃発とともに中ソ不可侵条約が結ばれ、これがついに国共合作にまで発展するにおよび、ソ連の極東における地位は安定し、日本は日華事変の拡大化に追われ、とうていソ連と事を構える余裕がなかった。 元来、満ソ国境は境界がはっきりせす紛争は絶えなかった。 昭和10年136件、昭和11年203件、昭和12年170件、このように紛争は増加の傾向にあった。 また昭和13年7月12日には張鼓峰事件という大規模な日ソ衝突事件が起ったが、昭和14年( 1939年 )5月11日に起ったノモンハン事件は、その規模と戦闘の激烈さにおいて、いままでのものとは比較にならぬものであり、近代戦の様相をまざまざ見せつけたものである。 6月から9月にわたる3ヵ月間の死闘の末、9月15日ようやく停戦協定締結となったが、関東軍は近代兵器の前に惨敗を喫した。






 北方領土問題はいつまでたってもらちがあかない。
 千島列島に関し平和時に締結された最後の条約は明治8年の樺太千島交換条約である。
 樺太はロシア領、千島列島は日本領とする分かりやすい内容だった。
 これ以降の動きはすべて戦争がらみである。
 日露戦争後のポーツマス条約では、日本軍が占領した樺太の、北緯50度以南が日本領となった。
 第二次大戦では、終戦6日前の昭和20年8月9日に突然日ソ中立条約を破って満州に侵攻したソ連軍が、翌々日には南樺太に侵攻したばかりか、何とポツダム宣言を受諾した15日以降に千島列島を占領したのである。
 まさに火事場泥棒である。
 国際法的に戦争を終結させるためのサンフランシスコ講和条約では、日本が千島列島を放棄した。
 米軍占領下の日本は正統な主張すらままならなかった。

  戦争による占領は一時的なもの、という現代の良識に立てば全千島列島は日本のものとなる。
 百歩を譲り江戸末期に締結された日露和親条約に戻っても北方四島は日本のものである。
 それがここ数10年、四島でも大きな譲歩なのに二島だの三・五島だのといった返還論が日本側から出されている。
 不思議である

 ペテルブルグ大学でロシアの歴史や政治を学び、卒業後は当地の新聞社で働いたことのある が、ベルリンに赴任したばかりの を訪れこう尋ねた。
 「ロシアとの交渉で一番大切なことは何だと心得ているかい」
Fは少考の後こう言った。
 「他国との外交交渉と同様、誠意を示し信頼を勝ち得るのが基本ではないでしょうか」
 「普通の国ならそうかも知れんが、ロシアにはその基本が通じない。 信頼関係を築いたと思っても、約束をしたと思っても、すぐさま破るのが常だ。 ヨーロッパ諸国や支那はそれで何度煮え湯を飲まされたことか」
 「日本も気をつけないといけませんね」
 「それがすでに煮え湯を飲まされているんだよ。 例えば樺太千島交換条約だ。 ヨーロッパの常識から言えば千島はもちろん、日露雑居だった樺太だって南半分は日本のものと主張してしかるべきだったのだ」
 「多少の譲歩は妥結のため仕方ないこともあると思いますが、ロシア相手ではいけないということでしょうか」
 「そうだ。 こちらの好意に対していつかあちらも好意で答えてくれるだろう、というのは日本人一般の考え方だ。 ところがロシア側は、日本が譲歩したのはロシアの強大な軍事力のためだ、威圧すればすぐに譲歩する国だ、と受け取るだけなのだ」

 こんな会話がなされたのは明治20年、 N は駐露公使で後に外務大臣となった西徳二郎、 F は駐ベルリン武官で後にシベリア単騎横断を成しとげた福島安正陸軍少佐 である。

日本人もロシア人も変らず、また人々は歴史に学ぼうとしない






   



日ソの国交回復をうたった共同宣言に署名する鳩山首相(左)と
ブルガーニン・ソ連首相。だが北方領土返還にはつながらなかった
=昭和31年10月19日、モスクワ
 昭和29年12月、日本民主党総裁だった 鳩山一郎 は悲願の首相の座に就いた。 翌30年の保守合同後は憲法改正に必要な議席を得るため衆院選に小選挙区制を導入しようとし、野党の反発で断念する。

 鳩山は国民的人気は高かったが、70歳を超え、26年6月に脳出血で倒れたこともあり、指導力や気力に陰りが見え始めた。 このため与党内に、ソ連との国交回復を花道に鳩山の退陣を探る動きが出てくる。

 ソ連は26年9月、西側への反発でサンフランシスコ講和条約に調印することを拒否した。 このため日ソ間の国交は回復せず、戦争状態を正式に終わらせる平和条約の締結も先送りされていた。

 だが日本にとっては終戦直後、ソ連に占拠された北方領土の奪還が最大の懸案だった。 さらにソ連内にはなお2千人を超えるとみられる日本人の 「長期抑留者」 が残されている。 無事帰すためにも国交回復は必要だった。

 一方のソ連も安保条約を結ぶ日本と米国との間にクサビをうち込もうとして日本に接近、国交回復交渉を打診してきていた。 このため鳩山内閣は30年2月4日の閣議で交渉開始を決定、6月から英ロンドンで日本の松本俊一全権、ソ連のヤコブ・マリク全権とによる協議が始まった。

 8月、マリクは唐突に妥協案を示してきた。 それまで求めてきた日米安保条約の改廃を引っ込めるとしたうえで 「( 北方領土の中で )歯舞、色丹の2島は返してもよい」 とした。 それまでのソ連からすれば信じられない譲歩で、日本側は色めき立ったという。

 だが報告を受けた 重光葵 外相は 「国後、択捉も日本固有の領土であり返還に努力すべきだ」 と訓令する。 日本側はあくまで 「4島返還」 であり、 「2島」 に応じては国後、択捉は永久に返ってこないとの判断だった。 マリクは激怒し交渉は中断する。

 翌31年になりソ連は 「からめ手」 から揺さぶってくる。 北洋水域に一方的に漁業規制区域を設け日本のサケ・マス漁業を締め出そうとしたのだ。 日本は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、実力者で漁業との関係の深い 河野一郎 農相が打開のためソ連を訪れる。

 5月9日に行われたニコライ・ブルガーニン首相との会談は外交交渉としては異例だった。 河野が日本側の通訳すらつけず1人でクレムリンに乗り込んだからだ。 河野の自著 『今だから話そう』 によれば、河野の熱弁を聞いたブルガーニンは側にいたイシコフ漁業相に 「河野君の言うことを聞いて協力してやりたまえ」 と述べ、双方の漁獲高を決める暫定協定ができたという。

 だがこの会談は日本国内で臆測を呼ぶ。 「制限区域での漁業を認める代わりに河野が国後、択捉返還要求を取り下げた」 という 「密約」 説である。 むろん河野は自著で 「日本に不利な話し合いをするはずがあろうか」 と全面否定している。 だが真偽にかかわらず、この密約説がその後の日ソ、日露関係に暗い影を落とす。

 この年の7月からモスクワでの交渉に臨んだ重光は、4島返還を持ち出すたびにソ連側から 「その点はブルガーニン・河野会談で申し述べてある」 と 「密約」 をほのめかして押し切られる。 このため対ソ強硬派の重光も 「刀折れ、矢尽きた」 とソ連の2島返還をのむしかないと鳩山に打電する。

 だがこれを拒否した鳩山は病身を押して河野とともに訪ソ、10月19日、日ソ共同宣言の調印にこぎつけ、国交回復を果たした。

 共同宣言は当初、歯舞、色丹の返還に加え 「領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉を継続する」 となっていた。 だが直前になってソ連のニキータ・フルシチョフ第一書記によって 「領土問題を含む」 が削除されてしまった。

 しかも4年後の昭和35年、日米安保条約が改定されるや、対日覚書の形で歯舞、色丹の引き渡しすら 「日本領土からの全外国軍隊の撤去を条件とする」 と一方的に通告してきた。 以来北方領土はいまだに返らず、ソ連を引き継いだロシアとの平和条約も結ばれていない。
【用語解説】 北方領土
 
 ソ連は昭和20( 1945 )年8月の終戦直後、日本領だった千島列島に攻め入り、同列島から択捉島、国後島、歯舞群島、色丹島までを占領する。 ヤルタ会談での 「密約」 に基づくものとした。 その後26年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島や樺太の一部に対する権利、権限、請求権を放棄した。

 だが明治8( 1875 )年、日露の樺太・千島交換条約で日本に引き渡された千島列島に歯舞、色丹はもとより択捉、国後の名前が含まれないことなどから4島が千島列島には属さない日本固有の領土であることは明白で、ソ連を引き継ぐロシアに返還を求める正当な権利がある。



                 
略奪,北方領土,ソ連,ロシア,第二次大戦,日ソ中立条約,降伏文書,ポツダム宣言, 千島列島,北方四島,択捉,国後,色丹,歯舞,占領,不法占拠,終戦,懲罰,他国,領土, 樺太,サハリン,面積等分論,2島返還,