「略奪」された北方領土
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[ 日ソ中立条約に調印する松岡外相 ]
( 後方スターリン、その右モロトフ・画像クリックで拡大 )
 ソ連軍は、日本が降伏文書( ポツダム宣言 )を受諾した3日後の8月18日、千島列島に攻撃を開始。 後に北方四島と呼ばれるようになった択捉、国後、色丹各島と歯舞群島を占領したのは、日本が降伏文書に署名した9月2日以降のことだった。 以来、ソ連・ロシアは60年以上、四島の不法占拠を続けている。

 ソ連は、終戦のどさくさに紛れて、当時は日本領だった千島列島や南樺太( 現サハリン )に加え、その歴史で一度もソ連・ロシア領となったことがない日本固有の領土の北方四島を略奪したのである。

[ 対ソ交渉および終戦問題討議の記録 ]
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 ロシア側は、それを、戦争を始めた日本への 「懲罰」 などと説明する。 だが、参戦したのはソ連の方で、日本はソ連に宣戦布告すらしていない ソ連は、日本を侵略 し、さらに 「懲罰」 を与えたのである。

 領土が石油などの富をもたらしてきたロシアでは、 「時と場合によっては、他国の領土すらも奪ってかまわない」 と、考えているリーダーたちが今も数多くいる。 その証拠が、北方領土なのである。 大戦後、領土を拡張したのは、連合国ではソ連だけなのだ。

 だから、四島の面積等分論や2島返還で解決することは、日本がソ連による 「領土略奪」 を是認したことになる

 しかし、未来志向の関係構築であれば、 「人のモノは盗んではいけない」 という普遍的な価値観を両国が共有することが何より重要だ。 「盗んでもいい」 文化圏と、協定を結んでも信頼関係は生まれない。 互恵的な経済協力にも限界が出てくるだろう。 ロシアに 「島を返してから友達になりましょう」 と訴え続けることが肝要ではないか。

 なぜ、日本は北方四島の返還を求めているのか?!
 戦争の記憶が薄れる昨今、学校で、その重要性を教えるときが来ているのではなかろうか。







[ 昭和20年8月8日附対日宣戦布告通知書 ]
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 第二次世界大戦末期の1945年( 昭和20 )8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告 をし、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。 日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。

[ ヤルタ会談3巨頭 ]
( 右より スターリン、ルーズヴェルト、チャーチル )
 これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ会談に基づくもの であった。

 樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

 満州でも8月17日に派遣された皇族が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥は8月19日に停戦交渉に入って、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。 満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことは少なかった。 日本軍の崩壊した後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。

 占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除され、9月6日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。 彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。 行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。 抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は57万名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。 一説には200万人以上とも言われる。






ソ連参戦 混迷の始まり

 地図で見ると旧満州、朝鮮半島、ソ連との国境が入り交じっているように見える満州東部の国境守備隊陣地、虎頭、五家子( 琿春南方約三十キロ )から 「ソ連軍の砲撃を受けている」 との第一報が第一方面軍司令部( 牡丹江 )に入ったのが昭和二十年八月九日午前零時であった。 相次いで東部正面の国境守備隊からも同様の入電があり消息を断った。 第一方面軍司令部はソ連の本格的な進攻が開始されたとの判断に立たざるをえなかった。
 新京にあった関東軍総司令部( 山田乙三大将 )に第五軍( 第一方面軍隷下 )の情報参謀前田忠雄中佐から緊急電話が入ったのは午前一時であった。 前田参謀はさらに 「東寧、綏芬河にもソ連軍が攻撃を始めた。 牡丹江はソ連機によって空襲を受けている」 と報告して電話を切った。
 関東軍はソ連の進攻に備えて東正面、北正面、西正面の三つに分けて兵力を配備していた。 まず東正面から 「ソ連進攻」 の第一報が入ったことは、他の二方面からも進攻してくる可能性があることを示唆した。 関東軍司令部内には殺気が漂った。
 同一時三十分、新京郊外の寛城子が空襲を受けた。 いきなり満州の中枢部に攻撃を仕かけてきたことは、ソ連が国境を越えて三正面からなだれこんでくる意思を持っていることの証明であった。 果たせるかな、北正面守備隊から 「ソ連軍が黒竜江の渡河を始めた」 と報告が入り、西正面守備隊からは 「満州里の国境監視哨を急襲され、有力な機械化部隊がハイラル方面に進出するもよう」 との報告が入った。 こうなっては、ソ連が全面戦争に踏み切ったと判断する以外にない。 一方的なソ連の武力攻撃はこうして開始された。
 関東軍総司令官山田大将は大連に出張中であったため、総参謀長秦彦三郎中将が大本営に急報( 電話 )すると同時に、全部隊に対して 「全面開戦準備」 を指令、さらに 「それぞれの作戦計画に基づき進入してくる敵を破砕すべし」 と下令した。
 関東軍からの急報に接した大本営も、また驚きを隠さなかった。 この時期 「本土決戦」 を叫ぶ主戦派と、日本降伏を求めた連合国のポツダム宣言の受諾をめぐって、軍部首脳、政府要人の間で対立が続いていた。
 が、だれよりもソ連進攻の事実を知って困惑したのは大本営参謀総長梅津美治郎大将、参謀次長河辺虎四郎中将、東郷茂徳外務大臣ら少数の“和平派”であった。 武力進攻を開始して来たソ連に、連合国との和平仲介を工作していたのである。
 ソ連は日本と中立条約を結んでいる唯一の国であった。昭和二十年四月五日、ソ連は日ソ中立条約を延長しない旨、通告してきたが、条約はまだ有効であり、モスクワには佐藤尚武大使、東京にはマリク大使が駐在していた。六月中旬から 「ソ連を仲介とする対米和平」の工作がひそかに進められ、具体的には七月十二日、天皇の特使として 「近衛文麿元総理を派遣したいのでソ連の意向を調整するよう」、外務省はモスクワの佐藤大使に訓電していた。
 この和平工作の推進論者の一人だった河辺参謀次長が、ソ連の参戦を知り 「ソ連に対する判断を誤った」 と八月九日の手記に書いているほど、日本にとっては“寝耳に水”であり、広島への米国の原爆投下を待っていたかのような武力進攻を開始したソ連の行動は日本人の理解を超えるものであった。河辺手記は政府、軍上層部の情報収集能力、国際感覚の欠如を物語ると同時に、日本人の“お人好し”の証明とも受け取れよう。
 歴史的な事実から見ればソ連の武力進攻は“無通告”であり計画的なものであった。ソ連がソ満国境から進攻してきた九日午前零時の段階では、日本人でソ連の 「対日宣戦布告」 の事実を知っていたのは、クレムリンでモロトフ外相から文書を突きつけられた佐藤大使一人である。
 佐藤大使は 「和平仲介」 をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めていた。 スターリン首相、モロトフ外相ら首脳はポツダム会談に出掛け、八月初め帰国した。七日クレムリンから電話があり 「八日午後八時( 日本時間九日午前二時 )にモロトフ外相が会見する」 と言ってきた。しばらくして 「午後五時( 日本時間八日午後十一時 )にしたい」 と変更申し入れがあった。佐藤大使は和平の仲介依頼が可能になったものと考え、クレムリンを訪れた。 が、あいさつもそこそこに、モロトフ外相が佐藤大使に手交したのは対日宣戦布告文であった。 「無線を使って日本に打電してよい」 と言いながら、どうした理由か、大使の打った電文は日本に届かなかった。 届いたとしても手の打ちようはなかったろう。
 日本がソ連の対日宣戦布告を知ったのは、すでにソ連が武力進攻を開始した四時間後、モスクワから打電されたタス通信を傍受してからである。 当時、外国と交信できる無線機を持っていたのは軍部以外には外務省ラジオ室と同盟通信社などにしかなかった。 松本俊一外務次官は 「九日早朝、外務省ラジオ室からと同盟からとの電話によってソ連の参戦を知った」 と言っている。
 佐藤駐ソ大使が、モスクワから発信したはずの 「ソ連、対日宣戦布告」 の電文が日本に届かなかったことを裏付けるいま一つの証言は、同盟通信社海外局長長谷川才次氏の談話である。 昭和二十二年、 『婦人公論』 八月号に同社の求めに応じて語った内容だ。 「九日( 昭和二十年八月 )午前四時ごろ( 同盟からの )電話でソ連が日本に宣戦布告したことを伝えてきた。 これはタス通信を受信したのです。 それを東郷( 茂徳外相 )さんと迫水( 久常内閣書記官長 )さんに知らせたときに、二人とも意外のような口ぶりで、東郷さんなどは 『ほんとうか』 となんべんも念を押すのだな。 というのは仲介の労を依頼して、いい返事のくるのを待っていたところだから」 と語っている。
  「仲介の労」 とはソ連を通じての日米和平工作のことである。 ソ連がヤルタで米英と対日参戦の密約を結んでいたことなど、日本はまったく知らなかったのである。





( 2015.08.09 )

  


 ソ連の対日宣戦布告を伝える佐藤尚武なおたけ駐ソ連大使の公電がソ連当局に封鎖され、日本に届かなかったのは事実上の 「無通告」 であり、満州などに武力侵攻したソ連が和平仲介の望みをつなぐ日本をだまし討ちしたことになる。 ソ連の後継国家であるロシアは北方領土の領有を 「第二次大戦の結果」 と主張するが、スターリン首相が日露戦争の報復と領土拡張のため、中立条約を無視して踏み切った 「侵略」 戦争の側面があったことは否定できない。
                   ◇

  「ソは遂ニ起チタリ、予ノ判断ハ外レタリ」

 昭和20年8月9日午前6時( 日本時間 )、大本営からの電話でソ連の参戦を知った河辺虎四郎陸軍参謀次長は日記にこう記している。 「中立」 を信じてソ連の仲介による戦争終結を構想していた日本には、ソ連の宣戦布告はまさに寝耳に水だった。

                  ×  ×

 敗色濃厚となった日本の中枢は、最後の頼みの綱としてソ連を仲介役に米英との和平を模索していた。 日本にとってソ連は中立条約を結んでいる唯一の大国だった。 20年4月5日にソ連は日本政府に中立条約を延長しないことを通告してきたものの、条約は翌21年4月まで有効で、20年6月中旬からソ連を仲介役とする米英との和平工作がひそかに進められていた。

 ところが、2月のヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連は侵攻の準備を進めていた。 日本の甘い見通しにソ連は明確な態度を示さず、参戦準備を察知されないように在欧日本人の帰国の便宜を図るといった隠蔽いんぺい工作も行っている。

 ソ連に傾斜した日本は近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣することを決め、7月12日、天皇から親しく命を受け、東郷茂徳外相はモスクワの佐藤大使に 「ソ連の意向を調整するよう」 訓電を送っている。

                  ×  ×

 外務省欧亜局東欧課作成の 「戦時日ソ交渉史」 によると、佐藤大使は近衛特使派遣をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めた。 ポツダム会談から首脳が帰国した8月7日、クレムリンから 「8日午後8時( 日本時間9日午前2時 )にモロトフが会う」 と連絡があり、その後 「8日午後5時( 同8日午後11時 )」 に前倒しされた。

 佐藤大使は近衛特使派遣をソ連が受け入れたと期待して8日、クレムリンを訪れたところ、モロトフ外相から渡されたのは宣戦布告文だった。 最後にどんでんがえしを食らった格好だ。

 9月2日、スターリンは対日 「戦勝」 記念演説で次のように語った。
「1904年の日露戦争でのロシア軍の敗北は国民の意識に重苦しい思い出を残した。 この敗北はわが国に汚点を印した。 わが国民は日本が粉砕され、汚点が一掃される日が来ることを信じ、そして待っていた。 その日は訪れた。 このことは、南樺太と千島列島がソ連に移ることを意味する」
 





( 2015.08.09 )

   





ソ連が対日宣戦布告したことを日本の外務省から在外公館に伝える
電報を解読した最高機密文書「ウルトラ」。しかしこの時点で、ソ連から
正式な布告文は届いていなかった(英国立公文書館所蔵)
 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった
 宣戦布告を通告された佐藤尚武なおたけ駐ソ連大使が 日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていた ためだ。 ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州( 中国東北部 )や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。 その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。

                   ◇

 日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯ひきょうな国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。

 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口( モンゴル )、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク( 政府暗号学校 )が傍受、解読したもの。 この文書は英政府の最高機密文書 「ウルトラ」 として保管された。

 電報を要約すると、 「ソ連は8月9日に宣戦布告した。 正式な布告文は届いていないが、( 日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の )宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」 などと書かれている。 外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。

 ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時( 日本時間同日午後11時 )、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。 モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。

 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した 「戦時日ソ交渉史」 によると、この公電は届かなかった。 モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。

 ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時( 日本時間9日午前0時 )に国交を断絶し武力侵攻を開始。 日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。 タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。

 正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。 ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。

 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。 日本は最後までソ連に宣戦布告していない。




 





 





                 
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